闇。

荻原重秀は月を見ていた。


狭い格子の向こうに見える月は、儚げで美しい。


灯りひとつない、板間の部屋で重秀は己の肉体が闇と一体化するような感覚に捉われた。思してみれば悪くない人生であったように思う。


重秀は、月明かりを頼りに己の手を見た。もはや骨と皮だけに化したその手にはいまだ力が残っている。


「人の命というものは不思議なものだ。」


重秀は自嘲気味に笑った。声を出さずに笑ったつもりであったが、掠れた息が空気を揺らした。板戸の向こうに控えているであろう番士が気づいたのであろう。コツと、板戸が音を立てた。







「人の命とはいかにも奇怪なものよ。」


その男は低く呟いた。眉間に深い皺が刻まれる。その皺はまるで「火」という文字に見えることから「火の子」と呼ばれたこの奇人は、今は「鬼」と呼ばれている。


その名を新井白石という。


第6代将軍徳川家宣の側近である間部詮房の政治顧問として抜擢され、その鋭い舌鋒と豊富な知識で、絶大な権力を有している。


その白石が、己の政治生命をかけて追い落とし、今はその命まで奪おうとする男。


それが荻原重秀であった。


「あの男を人と呼んでいいものかどうかはわからぬが。」


白石は、障子の向こうの男に声をかけた。障子の向こうの男は何も答えなかった。


「かくいうわしも世間では鬼と呼ばれておるそうじゃが。」


白石はそう言って笑った。


「今宵。幕引きをさせていただいてもよろしゅうございますか。」


障子の向こうの男が言葉を発した。低く小さな声であったが、「鬼」と呼ばれた新井白石をして、抗し難い圧力があった。


「さようさな。十兵衛・・。しかし、最後にあの者と言葉を交わしてみたい。」


「ご無用のことと存じます。」


「わしには必要なことじゃ。」


白石は、重秀の秀麗な顔を思い出していた。


若き日。


あの秀麗な横顔に受けた屈辱を、白石は片時も忘れたことはなかった。




*これは小説を書くための「スケッチ」です。