悪逆。


2025年。


自由党から政権を奪取した野党連合政権は発足わずか半年で瓦解した。

半年前、政治腐敗にまみれた自由党は、総選挙で歴史的な大敗を喫し下野した。しかし、第一党として躍り出た立民党もその議席数は過半数には遠く及ばず、他の野党との連合政権となったが、「野合」との批判の通り、政権発足当初から各党の思惑が先行し、政権内で立民党の次ぐ議席を有していた国民党が政権を離脱するに至り崩壊。自由党が再び政権に返り咲くことになった。


しかし、自由党も国民の信頼を回復したとは言い難く、政権復帰後の内閣は案の定、スキャンダルが続出し、閣僚の相次ぐ更迭、そして、肝心要の首相であった林田義和が病に倒れ、早くも首相交代ということになった。


自由党は激しい国民の突き上げに、後継首班に難航し、ついに意外な人物を指名する。


それは、党内でも全くの後ろ盾のない人物。


足利冬彦。


47歳。


父親は、立民党の幹事長であった足利孝彦である。冬彦はその孝彦の愛人との間にできた子であった。父である孝彦が長年、彼を息子と認めなかったため、大学を卒業をするまでは母親の姓である熊野を名乗っていたが、孝彦が政界を引退したのを機に親子の対面を果たし、足利姓を名乗るようになった。しかし、父親との確執は根深く、冬彦は、政治家を志すものの父親の地盤ではなく、母と暮らした福岡の地で政治家のキャリアをスタートさせた。


福岡県会議員を経て、国政に進出したのは15年前。父親が所属した立民党ではなく、自由党の公認で出馬したことは、この複雑な親子関係も相まって当時、大きな話題を呼んだ。自由党の中でも冬彦を「スパイ」として警戒する向きもあったが、卓越した先見性と交渉力で注目を浴び、当時幹事長であった木村辰之助の後ろ盾を得て、早くから党内の要職を歴任する。


下野前の政権では経済産業大臣にも抜擢されたが、後ろ盾であった木村が病死してからは特定の派閥にも属さず、実務家としての能力は高く評価されるものの党内基盤のない冬彦は後継レースには縁遠い存在とみられていた。


しかし、相次ぐスキャンダルで党内の実力者たちが脱落した中、清廉なイメージ、堅実な実務能力、弁舌の巧みさをもつ冬彦の存在が急速に際立ってきたのである。また、彼がどの派閥からも一定の距離がある点が党内の力学にとってプラスに働いた。どうせ、次の総選挙までのつなぎの内閣である。派閥の実力者にとっては、派閥を持たぬ冬彦は都合のいい人材であったのだ。


足利冬彦は第28代自由党総裁に選ばれ、第101代内閣総理大臣に選ばれる運びになったのは、2025年の5月のことである。


そしてそれは、日本という国の大きな運命の分岐点でもあったのだった。