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後継。

目覚めの悪い朝であった。


炎の中で、若い武者がおのれの首を自ら刎ねる、なんとも惨たらしい夢を見た。炎の熱気、むせかえるような血の臭い、首から迸る鮮血、夢というにはあまりにも鮮明な現実感を伴っていた。


しかも。


この夢を見るのはこれが初めてではない。この一ヶ月の間にすでに5回ほど見ていた。

はるか遠くから、眺めているような時もあれば、隣に座っているような時もある。

昨晩はついにあの若い武者が自分自身になったかのような感覚を覚えた。


ずきんと後頭部が鈍く痛む。


原一郎。39歳。


夢の主である。


衆議院議員、前経済産業省大臣政務官。父は第99代内閣総理大臣原太郎である。父、太郎は自由党の超がつく大物議員であり、原会派の領袖として絶大な権力を誇示していた。高卒から首相まで上り詰めたその経歴から庶民派首相として国民の人気も高かったが、宿願であった首相の座について半年あまりで、病気に倒れこの世を去った。


一郎は、太郎によって順調に後継者としての経験を積んでいたが、太郎の急死は一郎の政治家としてのキャリアにも影を落とした。太郎は、自分の政権を長く維持し、息子の一郎に派閥を継がす心づもりであったが、思いもかけない太郎の急死により、原派は、太郎の腹心であった石田佐治によって牛耳られてしまい、一郎は派閥の一構成員に甘んずるより他なかった。


ただ、国民の人気は、太郎の悲劇的な死とあいまって高く、将来的な首相に期待する声も多い。自由党としても一郎は、ある意味「切り札」的な存在である。ただしそれは都合のいい「操り人形」「客寄せパンダ」としてであるが・・。


「大奥様がお呼びです。茶室の方にお運びいただきたいと。」


寝室の扉の向こうから私設秘書の大野の声が聞こえた。大野は、父、太郎の頃からの秘書であり、現在は原家の執事のような立場である。


「わかりました。身支度を致しますので少しお待ちになっていただくようにお伝え下さい。」


「承知いたしました。」


扉の向こうで大野は答えた。そして、静かに足音も立てずに去っていった。


一郎は、頭に残る不快感を消し去るため、部屋を出て、シャワーを浴び、スーツに着替え、広大な原家の敷地の離れにある、彼の母親の茶室に向かった。


太郎が亡くなってから、この原家の実質的な主は、太郎の後妻であり、一郎の母である原美津子である。父、太郎を引き立てた恩人である自由党の重鎮、上総宣多嘉の孫娘であり、美貌と高い教養で若い頃から注目を集める存在であった。


太郎とは親子ほど歳が離れていたが、巷間では、宣多嘉が亡くなり自由党の権勢が太郎の掌中におさめられようとした時、美津子から太郎にアプローチをかけたとされ、上総一族から権勢を奪い取った太郎におのれの身を差し出し、彼の子をもうけることで、上総家の権勢を挽回しようとしたとも噂された。


美津子の真意は定かではないが、太郎はこの若い妻の前では唯々諾々であり、彼女もまた積極的に政治に関わろうとしたために、政界での彼女の評判は芳しいものではなかった。


一郎はこの母によって徹底的に管理された人生を送ってきた。母は、彼に父である太郎ではなく、祖父である宣多嘉の再来を期待した。また、一郎はその期待に沿えるだけの能力を有していた。190センチ近い長身は祖父譲りであり、秀麗な顔立ちは母の美貌を引き継ぎ、東大を抜群の成績で卒業する明晰な頭脳。どれをとっても一流であった。


しかし、彼のその能力はあくまでも母の管理下のもとでしか発揮されることはない。


祖父や父のような政治家に必要な生臭い人間力は、一郎からは微塵も感じられなかった。結局、父の派閥を石田に奪われることになったのも、彼自身の消極的な姿勢にあるといってもよい。


「一郎です。」


一郎は、茶室の外から声をかけた。一郎は物心ついてから母に対して、敬語以外で話したことはない。


「お入りください。」


中から返事があった。母である美津子もまた、一郎に対しては敬語で答える。それは、美津子の信念でもある。一郎は彼女にとって我が子というより上総家の象徴であった。そして上総家の象徴はすなわち日本の政治の頂点に立たねばならぬ。それが美津子の人生を賭けた宿願であるのだ。


「失礼いたします。」


一郎は、その長身を折り曲げるようにして茶室に身体を差し入れた。


茶室の中は香の匂いで満たされていた。








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